「自分らしさ」について、欺瞞と抵抗と希望

 
 
前回の記事は書いているうちにどんどん“お堅い”文章になってしまった。もう少し軽く書いて軽く読めるものにしたいと思っている。ので、今回は少し気分を変えて明るく華やかなガールズグループの力を借りて書き進めていきますね。(実は前回も同じ危惧から鬼滅の刃というポップめな話題を冒頭に据えて書き始めたんだけど、冒頭に出すだけでは安易すぎたようで失敗に終わった……)
 
 
YouTubeのオススメ動画でそのパフォーマンスの凄さに撃ち抜かれ、たまにわざわざ検索して見ているアイドルグループがある。韓国のJYP所属5人組女性アイドルのITZYだ。ちなみに他の韓国や日本のアイドル全般について網羅している訳ではないので、比較してどうこうという話はしないです。
 
ITZYのコンセプトはその楽曲やパフォーマンスから、誰もが瞬時に理解できるだろう。パワフルで美しいダンス、印象的な低音のラップ、大胆で華やかで男性への媚のないメイクや衣装、キャッチーながら癖の強いサウンドとメロディ、そしてそれらを象徴するのが強い自己肯定の歌詞である。
 
 
デビュー曲「DALLA DALLA」
「恋なんかにこだわらない
世の中にはおもしろいことがいっぱい」
「美しいだけで、魅力のない人たちと 私は違う、違う、違う」
「君の基準に私を合わせようとしないで
私は今の私が好き。私は私だよ。」
「I love myself  私は何か違う 私は君と違う」
 
 
 
「ICY」
「They keep talkin',I keep walkin'(彼らはしゃべり続ける、私は歩き続ける)」
「みんな Blah blah うるさい、私は大丈夫」
「Ring ring ring 鳴ってる All day long
皆、私を探すのに、忙しい
この歌が Your favorite song
そうなることをよく分かる」
「Icy but I'm on fire
私の中にあるDream、私は自信がある
私を見て I'm not a liar
君の考えに私を合わせる気はない」
 
 
 
「WANNABE」
「誰が何と言おうと私は私
私はただ 私になりたい
あえて"何か”になる必要はない
私はただ 私でいる時が完璧だから」
「I don't wanna be somebody
Just wanna be me, be me」
 
 
 
「Not Shy」
「Not shy Not me
私はすべてが欲しい、すべてが」
「手に入らなくても大丈夫
迷ったら、時間だけ過ぎちゃう」
「私が私の気持ちをなんで言ったらダメなの?」
「Not shy to say I want you
私たちはGreat pair great pair 
君の気持ちがよく分からないけど、
私の考えが正しいよ、だから
私の気持ちは私のもの、だから
好き!(っていうのは)自由だから
君の気持ちは君のものだから
言ってみて」
 
 
現在まで発売されているこの4曲は、最初の3曲で「周りのことは気にしない、私は私。私になりたい」と強く自己肯定し、それを下地に自分に自信を持って4曲めで「私と君」の関係に踏み出した流れとなっている、と受け取っている。
ITZYのこの力強く自分を肯定する歌詞とパフォーマンスによってファンを鼓舞していく姿勢にはかなり強烈な印象を受けた。ここまでやるか、というその極致をガールズグループのコンセプトとして突き進んでいると感じたからだ。
 
 
ここで、フェミニズムの流れを抑えておきたい。ITZYのこのコンセプトはフェミニズムを抜きにして話すことができない。潔く信頼性の高いネット記事や本を参考、引用してなるべく手っ取り早くまとめていきます。
 
 
近代思想が発展し、「法の下での個人の自由と万人の平等」という理念が市民革命などを経て制度として社会化されていくなかで、ここで示されている「人間」が男性主体でしかないことが女性の側から叫ばれ始める。
『女性の権利の擁護』メアリー・ウルンストンクラフト
人類の一方から他方に認めている権利を剥奪することは専制的で非論理的であると訴え、第一波フェミニズムがここにはじまったとされる。
『女性と女性市民の権利宣言』オランプ・ド・グージュ
性別を考慮して女性たちの政治的進出が必要だと訴える。
市民革命によって万人の法の下の平等を獲得したはずが、実際には参政権すらなく、制度上で常に女性は男性の劣位に置かれていた。そこで、女性たちは集団となって男性と“同等”の政治的権利を求める運動や社会活動を開始する。これが第1波フェミニズムである。
その成果は「普通選挙権の獲得」という形で実を結び、女性たちはここで初めて近代社会における政治参加資格を有する「市民」(=人間)の一員となった。
 
 
第二次世界大戦後に高度に産業化してきた社会が行き詰まりを見せはじめ、近代産業社会を支えていた生産市場主義への問い直しとして、新たな社会への改革を求める学生運動や反体制運動が世界中で1960年代から1970年代にかけて巻き起こる。公民権運動(マイノリティの政治的権利の平等)やベトナム反戦運動(国際平和)など。
しかしその運動のなかでも女性は従来どおり運動の前線の男性を後方から支える役割を期待されるという性差別の形が温存されておりそのことへの疑問から女性たちは男性中心で作られているこの近代社会そのものを問題視していく。そして以前の“男並み”の女性の権利を要求することが「産業社会の価値に加担し、ベトナム戦争入管法に見られるアジアへの排外主義と侵略の共犯になること」だとして批判する。(※)
「個人的なことは政治的なこと」つまり日常的な性差別を問題化し、社会的な抑圧全体を問い直した女性解放思想、運動が第2波フェミニズムである。
その成果は学術的には「女性学」の台頭、そして「家父長制」こそが階級以上に本質的な抑圧形態であると位置づけ、フェミニズムがとりくむべき最も中心的な課題とされたことにある。この理論のなかで、「母性愛神話」などこれまで「女の幸せ」と思い込まされていた主婦的生活における権力関係を次々に暴いていく。そして女たちは家庭から外に出て働くことを通した自己実現の形を手にしていく。「雇用機会均等法」や「男女平等参画」はこのような流れのなかで社会に登場したのである。
 
 
(※)引用

 

リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

  • 発売日: 2009/05/28
  • メディア: 単行本 
 日本の第2波フェミニズムについてはこの本がかなり網羅している
 
グローバル化、脱産業化、個人化が進み、女子の大学進学率の上昇、男女平均賃金の格差の縮小など母親世代が訴えた第2波フェミニズムの成果が着実に見えてきたなかで、メディアに登場する女性たちに強調されるのは市場でのきらびやかな個人的成功であった。新自由主義的なポストフェミニズムの状況下においてフェミニズムはすでに解決済みであるとされ「逆差別」など女性が不当に優遇されているとのバックラッシュが起こっているなかで、現状は根強く性差別が残っていることから新たなフェミニズムの形が模索されるようになる。
しかし第2波フェミニズムの成果による女性の「社会進出」は、以前のように女性同士を連帯させることを難しくさせていた。さらに、セクシャリティ人種など様々な差異が社会的に立ち現れてきたことによって、女性の問題だけを画一的に扱うことは遥かに困難なものとなっていた。
そこで、女性全体の解放を目指す第二波フェミニズムと、新自由主義的な自己実現(労働市場や恋愛市場に対して“商品”として周囲から差異化した自分を売り出すようなシステム)を目指すポストフェミニズムとの矛盾を見つめ、対話し、調和することを目指し、個人間の様々な差異を積極的に取り込みながら個を尊重し、すべての女性にとっての私らしさをもう一度取り戻すことこそが第3波フェミニズムの求める平等の形となっていくのである。
時に商業主義と親和的に「なりたい自分」を創出し、時にそんな商業主義に取り込まれて都合よく利用されがちなことに抵抗し、しかし一貫して「私は私だ!」と叫び続ける当事者の声の形は、現在ではSNSを通してよりカジュアルに、未だに山積する問題と向き合うものとなっている。
 
 
ITZYがガールズグループのコンセプトとして「自分らしさ」を全面に押し出していることは、この第3波フェミニズムの流れを大きく汲むものと見て問題ないだろう。旧来の“伝統的な”性役割から飛び出し、力強い歌詞とパフォーマンスで同年代の“憧れ”としてステージに立つ姿はまさしく女の子たちのエンパワメントに違いない。企業から商品として売り出され、消費者であるファンからも応援という形で消費されるアイドルでありながら、“1人の人間としての私”を掲げていることへの倒錯が恐ろしくポジティブに表現されていることにわたしはゾッとしながら興奮してしまうのだ。
 
 
さて、「自分らしく」というこの言葉に対してどんなイメージをもつだろうか。
この言葉はその表面的に受ける肯定的な印象に反してどこか“説教”くさいニュアンスを感じる。「自分らしく」ないことは悪いことだ、「自分らしく」あらなければならない、そんな脅迫的な意味合いを内包しているように思えてならない。その違和感はいったい何処からくるのだろう。
 
女性の「自己表現」の形として真っ先に挙げられるものと言えば「化粧」ではなかろうか。これを軸に話を進めていきたい。
第2波フェミニズムのなかで「男性にとって都合のいい存在」となることを徹底的に問題視した結果、化粧をすることにまで疑問を持つことになった女性たちは、化粧をしないことが正義なのではなく、化粧をするにしても「主体的」に化粧することを選択することが大切だ、と考えるようになる。女という性に生まれただけで着飾ることを社会から押し付けられることへの抵抗。それが第3波フェミニズムにおける「ガールズパワー」に象徴される“主体的自己表現”ということになるだろう。
 
頭ではそれが納得できても、実感としてはどこか腑に落ちない。
それは、“若い女性”が「化粧をしない」という選択肢が社会のなかでは保証されていないことにあるのだと思う。実際に化粧をしない若い女性は存在していても、「すっぴんで昼間から知り合いに会いに出歩くことは“恥ずかしい”」と思ってしまう割合のほうが遥かに多いのは事実だろう。化粧をすることがスタンダードな社会にあって、化粧をしないという選択をするのは困難なものだ。就活にノーメイクでいけば“社会性がない”などと言って落とされかねないし、もしくは何故化粧をしない選択をしたのか理由を聞かれるかもしれない。化粧をして就活に臨んでいる女性やそもそも化粧をしない男性たちはそんなことをわざわざ聞かれることなど無いというのに。「化粧をしていない」状態から「化粧をする」という動作を行うことは自発的なものだと言えるが、そこに「化粧をしないままでいる」という選択肢が社会的に無いも同然ならばその行動は選んだものではないと言っていいだろう。どんなに本人が「私は自分のために自分で化粧することを“主体的に”選んでいる」と言っても、女性は着飾るべきという社会的な圧力が存在し、そこから逸脱することの“コスパが非常に悪い”とき、私たちに選択肢は保証されていない。
 
当たり前だが、企業からすれば商品が売れることが命題であり、商品を売るために「自分らしく」という言葉が使われる。そうして消費者の欲望を半ば脅迫的に喚起し続け、さらにはこれまで化粧をすることが規範とされていなかった男性にまでそのターゲットを広げつつある。化粧品が売れる市場を拡大していく商業主義そのものが「化粧をする」ことによる“自分らしさ”を後押しする源泉になっており、化粧をすることが女性だけのものではなくなるムーブメントがある。その一方で「化粧をしない」という選択肢は商業主義には都合が悪い。「すっぴん風メイク」や「ナチュラルメイク」は流行しても、本当のすっぴんを推奨するファッション雑誌は見たことがない。企業側から「化粧による“自分らしさ”」だけがメッセージとして発信される状態がここに完成する。

 

 
さらに、そもそも何故女性にだけ「着飾るべし」という規範が課されてきたかと言えば、これまで女性が男性の「所有物」とされてきたからだという歴史がある。民法として制度化されていた戦前も、性別役割分業として慣習化されていた戦後も、そして専業主婦が減り自分で生計を立てて働く女性が増えている現在でも、男女間の賃金格差はなかなか埋まらない。女性が「幸せになるために結婚するのだ」と宣言するとき、結婚による経済的メリットの存在は本人が自覚的でなかったとしても含まれることがある。非正規雇用で働く女性、正規雇用でも同期の男性より手取りの少ない女性が「今より経済的に良い生活」を望むとき、そこには結婚という手段が存在感を放っていることだろう。しかし夫婦で収入に差があることは、そのまま夫婦間の権力関係に結びつきやすい。夫からモラハラやDVを受けても、生活が苦しくなることを恐れて我慢することを選択する女性は非常に多い。そこまでではなくとも、夫に何かしらの不満があるのに言い出せない状況というのは離婚沙汰になっては経済的に困るという社会的な背景が存在するのではないか。男性と同等以上に稼ぐエリート女性が結婚するかしないかを選択するとき、経済的メリットを考慮しないで済むのは非常に有意義なことである。残念ながらそんな女性は少数しかおらず、「女性らしく」「愛されメイク」をすること、もしくは“人並みに”小綺麗にしていることを社会から半ば強制されつつ、自ら内面化することがこの社会で女性として生きていくための術となってしまっている。


では経済的に自立していれば「小綺麗に化粧すべし」という社会的圧力から解放されるかと言うとそうでもないのがまた悲しいところだ。化粧することを心から毎日楽しめている女性はいいだろう。しかし、化粧をすることにあまり興味がなかったり、疲れている日に本当は面倒でもっと長く寝ていたかったのにいつも通り目覚ましで起きて化粧をしているとき、それは社会に他の選択肢がないためにそれを受け入れざるを得ない状態だと言えるのではないだろうか。
そこに「自分らしさ」という小綺麗なラベルを貼ることが私には暴力的に映ってならないのだ。
 
就活の話でいえば、学生も企業を選ぶ側だといってもやはり希望する企業に選ばれなければどうにもならない。選り好みできるのは複数の企業から求められるものを持っている一部の者だけだろう。その他の多くの学生は選ばれるためにあの手この手で奔走する。そこでは「ありのままの自分」と「ありたい自分」と「選ばれるような学生」の境界が混じり合い、場合によっては徹底的にありのままの自分を抑圧して求められる学生像に擬態することを無意識的に行っているかもしれない。企業と学生の間には対等なんて名ばかりの権力関係が存在する。弱い立場にある学生が企業から「自分らしさ」を求められたところで、そこに自由は存在しない。
 
「自分らしく」というこの概念は一見するとどんな形も肯定してくれているようで、その字面に反してやっぱりどこかに「自分らしく」の正解の型がいくつか存在していて、そこから逸脱することが難しいような印象がある。
キラキラと華やかなパフォーマンスをするITZYのように男性に媚びず女の子たちから憧れられる人だとか、エマ・ワトソンのように賢く強く柔軟に自己主張しながら自分の人生を謳歌できる人だとか、すっぴんでおしゃれなゆとりのある生活をすることを選択した人だとか。なんだかイメージが貧困で漠然としているのはわたしが「自分らしく」という言葉に懐疑的なことが大きいのだろう。つまり、「自分らしく」を追求できる人たちというのは精神的にも経済的にも「自分らしく」あれるだけの“余裕”のある人たちなのではないか。
この“余裕”を抱けない日々を送っている者からすれば、「自分らしく」を追求していくことができるのはある種の“特権”である。もちろん経済的に余裕のないなかでも工夫して「自分らしく」を追求している人もいるだろうが、往々にして暮らしに余裕がなければ楽しむゆとりは萎びがちだ。
 
さらに、この言葉は良い意味でも悪い意味でも「個人的なこと」を「個人的なこと」の枠に押さえつけるものとなりやすい。第2波フェミニズムは「個人的なことは政治的なこと」だというスローガンで、個人的な経験が社会の構造や政治に結び付いていることを明らかにすることを掲げていた。しかし「自分らしく」という言葉によって、本来は社会的な問題であるはずのことさえ「個人的なこと」として収斂させてしまう危険がある。つまり、余裕のない者すなわち“選択肢を他にもたない”すべての者に対して「それも自分らしさ」だと言って半強制的に受け入れさせるような、そんな暴力的な恐さを感じてならない。
 
 
そもそも「自分らしく」という言葉が叫ばれるようになったのは、第2波フェミニズムのなかで常に女を都合のいい存在として貶めてきた社会への抵抗から、女たちが自分を「取り戻す」ためであった。そのため、上記のような危惧さえなければ、「自分らしく」と叫ぶこと自体はとても大切なものだと思う。身体的性別をジェンダーという社会的な性別に押し込め抑圧することへの抵抗、解放は2020年において一際大きな世界的課題だと言えよう。問題は、それが商業主義や個人化が進む社会のなかで「取り戻せていない」部分が大きいまま、個人単位に対してエンパワメントを期待し促すようなそのメッセージだけはどんどん肥大化を続けていることにある。
 
 
「世の中には二種類の人間がいる。気に入りの枕でないと寝つけない者と、枕などどうでもいい者と。寝具にこだわらないのは賢明でないと個人的には思う。今夜借りる布団はどぶから拾ったものかもしれないし、さっきまで動物の寝床だったかもしれない。あなたのものは私のもの、私のものはあなたのものという精神は言葉どおり、良いことも悪いこともすべてみんなで背負う。ときに合理的で、ときに非効率的だ。そうと知りつつ、私たち一家は枕を借りながら生きてきた。
毎日枕が替わっても気にならないし、どんな枕をあてがわれても平気だ。こんな枕で眠りたいと、理想の枕を想像したためしもない。それは自分の枕でないと寝られないことにくらべれば、自由であるような気がする。でも自由とは、自分を縛る鎖を自分で選ぶことだと、聞いたこともある。」

 

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

  • 作者:栗田 有起
  • 発売日: 2006/06/28
  • メディア: 文庫
 

 

自由とは、選択肢が保証されている状態であることが大前提なのだ。テルミ-は“選択肢がない状況”のなかで、それに対して順応することを“選んでいる”のだが、順応しなければ生きてはいけないのだから選択肢はないに等しい。一見“選んでいる”ように見えても、実は選択肢が他にないということは現実社会にも往々にしてある。
 
世界で唯一夫婦同姓を義務づけられ夫婦別姓を選択することができない制度のもとで、それを普通のことだと認識している状態
 
・「細いねぇ」が女性への誉め言葉とされ、痩せていなければその辺に売っている服を綺麗に着ることすらできない状態
 
・実質賃金が下がり続け、戦後初めて親の世代よりも年収が低くなっているというミレニアル世代が車を持つこと、子どもをつくることを諦めてお金のかからない趣味が多様化している状態
 
・単価の安い食品ばかり購入している低所得者層のほうが、栄養やバランスを考えた食事を用意できる高所得者層よりも肥満度が高いという現実
 
・ホームレスでいることも自己責任とされ、ホームレスの人たちがその生活を自ら選び、楽しんでいるかのように受け取ること
 
 
 
「自分らしく」あるためには、どれを選んでも生存権が脅かされず、社会的に立場を失うこともないような複数の選択肢が保証されていなければならない。そうでなければ、強制的と言える行為が「自分らしく」というベールで包まれた欺瞞となってしまう。
 
この“選択肢”が日本社会に少なすぎること、社会的立ち位置によって選択肢の量と質に違いがありすぎることを“仕方のないこと”として受け入れず、選択肢を増やすために、現状を変革していくことが必要なのだと思う。上記した“違和感”の正体とはつまり、選択肢のない社会に対して働きかけを行わないまま、個人単位にだけ向けて「自分らしく生きれるよう頑張ろう」と鼓舞するような姿勢への違和感だったということなのだ。私たちは「自分」の中だけで無理に完結させる努力をしなくてもよいのではないか。社会に対して選択肢がないことに不満を抱き、選択肢が増えることを望むこと、それこそが欺瞞ではない「自分らしさ」や多様性のある自由につながるものとなるのだと思う。選択肢のない現状に満足している者だとしても、他の選択肢を選べないことで不自由な思いを噛み殺して生きている者がいるのなら、選択肢が増えること自体に反対するのは筋違いである。
 
テルミーは希望を意志的に断念することで自分を保っていた。その断念は、選択肢が増えることを社会に期待ができないことによるものだろう。社会と個人の間に信頼関係が結ばれていないとき、その社会は存在意義を見失い、個人に対して害を及ぼすものとなる。そもそも日本には「社会」という概念が存在せず、「世間」というものが社会の顔をしてきたと阿部謹也は言う。すなわち、社会との信頼関係が希薄化しているのではなく、明治初期に「社会」という言葉を導入してこの方、「社会」というものを日本人は本当の意味ではまだ会得していないのではないかということだ。他の国のように民主主義が根づいていないことも、コロナ禍で人々がマスクで自衛は積極的に行っても給付金のさらなる追加を求める声を連帯してあげていこうという機運がなかなか高まらないことも、すべては「世間」の概念の中に日本人が生きているから、という理由で説明がついてしまう。
 
日本の喫緊の課題とはすなわち「社会」をどのように会得していくのかに尽きる。社会との信頼関係が成立して初めて個人は社会にこうあってほしいと希望を抱くことができるのだから。しかし実は、「社会にこうあってほしい」と願うことそのものが社会統合の礎となる。選択肢を広げるために、社会を作り上げるために、希望を抱くための「希望」をもつことが「取り戻す」ということなのではないだろうか。