「自分らしさ」について、欺瞞と抵抗と希望

 
 
前回の記事は書いているうちにどんどん“お堅い”文章になってしまった。もう少し軽く書いて軽く読めるものにしたいと思っている。ので、今回は少し気分を変えて明るく華やかなガールズグループの力を借りて書き進めていきますね。(実は前回も同じ危惧から鬼滅の刃というポップめな話題を冒頭に据えて書き始めたんだけど、冒頭に出すだけでは安易すぎたようで失敗に終わった……)
 
 
YouTubeのオススメ動画でそのパフォーマンスの凄さに撃ち抜かれ、たまにわざわざ検索して見ているアイドルグループがある。韓国のJYP所属5人組女性アイドルのITZYだ。ちなみに他の韓国や日本のアイドル全般について網羅している訳ではないので、比較してどうこうという話はしないです。
 
ITZYのコンセプトはその楽曲やパフォーマンスから、誰もが瞬時に理解できるだろう。パワフルで美しいダンス、印象的な低音のラップ、大胆で華やかで男性への媚のないメイクや衣装、キャッチーながら癖の強いサウンドとメロディ、そしてそれらを象徴するのが強い自己肯定の歌詞である。
 
 
デビュー曲「DALLA DALLA」
「恋なんかにこだわらない
世の中にはおもしろいことがいっぱい」
「美しいだけで、魅力のない人たちと 私は違う、違う、違う」
「君の基準に私を合わせようとしないで
私は今の私が好き。私は私だよ。」
「I love myself  私は何か違う 私は君と違う」
 
 
 
「ICY」
「They keep talkin',I keep walkin'(彼らはしゃべり続ける、私は歩き続ける)」
「みんな Blah blah うるさい、私は大丈夫」
「Ring ring ring 鳴ってる All day long
皆、私を探すのに、忙しい
この歌が Your favorite song
そうなることをよく分かる」
「Icy but I'm on fire
私の中にあるDream、私は自信がある
私を見て I'm not a liar
君の考えに私を合わせる気はない」
 
 
 
「WANNABE」
「誰が何と言おうと私は私
私はただ 私になりたい
あえて"何か”になる必要はない
私はただ 私でいる時が完璧だから」
「I don't wanna be somebody
Just wanna be me, be me」
 
 
 
「Not Shy」
「Not shy Not me
私はすべてが欲しい、すべてが」
「手に入らなくても大丈夫
迷ったら、時間だけ過ぎちゃう」
「私が私の気持ちをなんで言ったらダメなの?」
「Not shy to say I want you
私たちはGreat pair great pair 
君の気持ちがよく分からないけど、
私の考えが正しいよ、だから
私の気持ちは私のもの、だから
好き!(っていうのは)自由だから
君の気持ちは君のものだから
言ってみて」
 
 
現在まで発売されているこの4曲は、最初の3曲で「周りのことは気にしない、私は私。私になりたい」と強く自己肯定し、それを下地に自分に自信を持って4曲めで「私と君」の関係に踏み出した流れとなっている、と受け取っている。
ITZYのこの力強く自分を肯定する歌詞とパフォーマンスによってファンを鼓舞していく姿勢にはかなり強烈な印象を受けた。ここまでやるか、というその極致をガールズグループのコンセプトとして突き進んでいると感じたからだ。
 
 
ここで、フェミニズムの流れを抑えておきたい。ITZYのこのコンセプトはフェミニズムを抜きにして話すことができない。潔く信頼性の高いネット記事や本を参考、引用してなるべく手っ取り早くまとめていきます。
 
 
近代思想が発展し、「法の下での個人の自由と万人の平等」という理念が市民革命などを経て制度として社会化されていくなかで、ここで示されている「人間」が男性主体でしかないことが女性の側から叫ばれ始める。
『女性の権利の擁護』メアリー・ウルンストンクラフト
人類の一方から他方に認めている権利を剥奪することは専制的で非論理的であると訴え、第一波フェミニズムがここにはじまったとされる。
『女性と女性市民の権利宣言』オランプ・ド・グージュ
性別を考慮して女性たちの政治的進出が必要だと訴える。
市民革命によって万人の法の下の平等を獲得したはずが、実際には参政権すらなく、制度上で常に女性は男性の劣位に置かれていた。そこで、女性たちは集団となって男性と“同等”の政治的権利を求める運動や社会活動を開始する。これが第1波フェミニズムである。
その成果は「普通選挙権の獲得」という形で実を結び、女性たちはここで初めて近代社会における政治参加資格を有する「市民」(=人間)の一員となった。
 
 
第二次世界大戦後に高度に産業化してきた社会が行き詰まりを見せはじめ、近代産業社会を支えていた生産市場主義への問い直しとして、新たな社会への改革を求める学生運動や反体制運動が世界中で1960年代から1970年代にかけて巻き起こる。公民権運動(マイノリティの政治的権利の平等)やベトナム反戦運動(国際平和)など。
しかしその運動のなかでも女性は従来どおり運動の前線の男性を後方から支える役割を期待されるという性差別の形が温存されておりそのことへの疑問から女性たちは男性中心で作られているこの近代社会そのものを問題視していく。そして以前の“男並み”の女性の権利を要求することが「産業社会の価値に加担し、ベトナム戦争入管法に見られるアジアへの排外主義と侵略の共犯になること」だとして批判する。(※)
「個人的なことは政治的なこと」つまり日常的な性差別を問題化し、社会的な抑圧全体を問い直した女性解放思想、運動が第2波フェミニズムである。
その成果は学術的には「女性学」の台頭、そして「家父長制」こそが階級以上に本質的な抑圧形態であると位置づけ、フェミニズムがとりくむべき最も中心的な課題とされたことにある。この理論のなかで、「母性愛神話」などこれまで「女の幸せ」と思い込まされていた主婦的生活における権力関係を次々に暴いていく。そして女たちは家庭から外に出て働くことを通した自己実現の形を手にしていく。「雇用機会均等法」や「男女平等参画」はこのような流れのなかで社会に登場したのである。
 
 
(※)引用

 

リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

  • 発売日: 2009/05/28
  • メディア: 単行本 
 日本の第2波フェミニズムについてはこの本がかなり網羅している
 
グローバル化、脱産業化、個人化が進み、女子の大学進学率の上昇、男女平均賃金の格差の縮小など母親世代が訴えた第2波フェミニズムの成果が着実に見えてきたなかで、メディアに登場する女性たちに強調されるのは市場でのきらびやかな個人的成功であった。新自由主義的なポストフェミニズムの状況下においてフェミニズムはすでに解決済みであるとされ「逆差別」など女性が不当に優遇されているとのバックラッシュが起こっているなかで、現状は根強く性差別が残っていることから新たなフェミニズムの形が模索されるようになる。
しかし第2波フェミニズムの成果による女性の「社会進出」は、以前のように女性同士を連帯させることを難しくさせていた。さらに、セクシャリティ人種など様々な差異が社会的に立ち現れてきたことによって、女性の問題だけを画一的に扱うことは遥かに困難なものとなっていた。
そこで、女性全体の解放を目指す第二波フェミニズムと、新自由主義的な自己実現(労働市場や恋愛市場に対して“商品”として周囲から差異化した自分を売り出すようなシステム)を目指すポストフェミニズムとの矛盾を見つめ、対話し、調和することを目指し、個人間の様々な差異を積極的に取り込みながら個を尊重し、すべての女性にとっての私らしさをもう一度取り戻すことこそが第3波フェミニズムの求める平等の形となっていくのである。
時に商業主義と親和的に「なりたい自分」を創出し、時にそんな商業主義に取り込まれて都合よく利用されがちなことに抵抗し、しかし一貫して「私は私だ!」と叫び続ける当事者の声の形は、現在ではSNSを通してよりカジュアルに、未だに山積する問題と向き合うものとなっている。
 
 
ITZYがガールズグループのコンセプトとして「自分らしさ」を全面に押し出していることは、この第3波フェミニズムの流れを大きく汲むものと見て問題ないだろう。旧来の“伝統的な”性役割から飛び出し、力強い歌詞とパフォーマンスで同年代の“憧れ”としてステージに立つ姿はまさしく女の子たちのエンパワメントに違いない。企業から商品として売り出され、消費者であるファンからも応援という形で消費されるアイドルでありながら、“1人の人間としての私”を掲げていることへの倒錯が恐ろしくポジティブに表現されていることにわたしはゾッとしながら興奮してしまうのだ。
 
 
さて、「自分らしく」というこの言葉に対してどんなイメージをもつだろうか。
この言葉はその表面的に受ける肯定的な印象に反してどこか“説教”くさいニュアンスを感じる。「自分らしく」ないことは悪いことだ、「自分らしく」あらなければならない、そんな脅迫的な意味合いを内包しているように思えてならない。その違和感はいったい何処からくるのだろう。
 
女性の「自己表現」の形として真っ先に挙げられるものと言えば「化粧」ではなかろうか。これを軸に話を進めていきたい。
第2波フェミニズムのなかで「男性にとって都合のいい存在」となることを徹底的に問題視した結果、化粧をすることにまで疑問を持つことになった女性たちは、化粧をしないことが正義なのではなく、化粧をするにしても「主体的」に化粧することを選択することが大切だ、と考えるようになる。女という性に生まれただけで着飾ることを社会から押し付けられることへの抵抗。それが第3波フェミニズムにおける「ガールズパワー」に象徴される“主体的自己表現”ということになるだろう。
 
頭ではそれが納得できても、実感としてはどこか腑に落ちない。
それは、“若い女性”が「化粧をしない」という選択肢が社会のなかでは保証されていないことにあるのだと思う。実際に化粧をしない若い女性は存在していても、「すっぴんで昼間から知り合いに会いに出歩くことは“恥ずかしい”」と思ってしまう割合のほうが遥かに多いのは事実だろう。化粧をすることがスタンダードな社会にあって、化粧をしないという選択をするのは困難なものだ。就活にノーメイクでいけば“社会性がない”などと言って落とされかねないし、もしくは何故化粧をしない選択をしたのか理由を聞かれるかもしれない。化粧をして就活に臨んでいる女性やそもそも化粧をしない男性たちはそんなことをわざわざ聞かれることなど無いというのに。「化粧をしていない」状態から「化粧をする」という動作を行うことは自発的なものだと言えるが、そこに「化粧をしないままでいる」という選択肢が社会的に無いも同然ならばその行動は選んだものではないと言っていいだろう。どんなに本人が「私は自分のために自分で化粧することを“主体的に”選んでいる」と言っても、女性は着飾るべきという社会的な圧力が存在し、そこから逸脱することの“コスパが非常に悪い”とき、私たちに選択肢は保証されていない。
 
当たり前だが、企業からすれば商品が売れることが命題であり、商品を売るために「自分らしく」という言葉が使われる。そうして消費者の欲望を半ば脅迫的に喚起し続け、さらにはこれまで化粧をすることが規範とされていなかった男性にまでそのターゲットを広げつつある。化粧品が売れる市場を拡大していく商業主義そのものが「化粧をする」ことによる“自分らしさ”を後押しする源泉になっており、化粧をすることが女性だけのものではなくなるムーブメントがある。その一方で「化粧をしない」という選択肢は商業主義には都合が悪い。「すっぴん風メイク」や「ナチュラルメイク」は流行しても、本当のすっぴんを推奨するファッション雑誌は見たことがない。企業側から「化粧による“自分らしさ”」だけがメッセージとして発信される状態がここに完成する。

 

 
さらに、そもそも何故女性にだけ「着飾るべし」という規範が課されてきたかと言えば、これまで女性が男性の「所有物」とされてきたからだという歴史がある。民法として制度化されていた戦前も、性別役割分業として慣習化されていた戦後も、そして専業主婦が減り自分で生計を立てて働く女性が増えている現在でも、男女間の賃金格差はなかなか埋まらない。女性が「幸せになるために結婚するのだ」と宣言するとき、結婚による経済的メリットの存在は本人が自覚的でなかったとしても含まれることがある。非正規雇用で働く女性、正規雇用でも同期の男性より手取りの少ない女性が「今より経済的に良い生活」を望むとき、そこには結婚という手段が存在感を放っていることだろう。しかし夫婦で収入に差があることは、そのまま夫婦間の権力関係に結びつきやすい。夫からモラハラやDVを受けても、生活が苦しくなることを恐れて我慢することを選択する女性は非常に多い。そこまでではなくとも、夫に何かしらの不満があるのに言い出せない状況というのは離婚沙汰になっては経済的に困るという社会的な背景が存在するのではないか。男性と同等以上に稼ぐエリート女性が結婚するかしないかを選択するとき、経済的メリットを考慮しないで済むのは非常に有意義なことである。残念ながらそんな女性は少数しかおらず、「女性らしく」「愛されメイク」をすること、もしくは“人並みに”小綺麗にしていることを社会から半ば強制されつつ、自ら内面化することがこの社会で女性として生きていくための術となってしまっている。


では経済的に自立していれば「小綺麗に化粧すべし」という社会的圧力から解放されるかと言うとそうでもないのがまた悲しいところだ。化粧することを心から毎日楽しめている女性はいいだろう。しかし、化粧をすることにあまり興味がなかったり、疲れている日に本当は面倒でもっと長く寝ていたかったのにいつも通り目覚ましで起きて化粧をしているとき、それは社会に他の選択肢がないためにそれを受け入れざるを得ない状態だと言えるのではないだろうか。
そこに「自分らしさ」という小綺麗なラベルを貼ることが私には暴力的に映ってならないのだ。
 
就活の話でいえば、学生も企業を選ぶ側だといってもやはり希望する企業に選ばれなければどうにもならない。選り好みできるのは複数の企業から求められるものを持っている一部の者だけだろう。その他の多くの学生は選ばれるためにあの手この手で奔走する。そこでは「ありのままの自分」と「ありたい自分」と「選ばれるような学生」の境界が混じり合い、場合によっては徹底的にありのままの自分を抑圧して求められる学生像に擬態することを無意識的に行っているかもしれない。企業と学生の間には対等なんて名ばかりの権力関係が存在する。弱い立場にある学生が企業から「自分らしさ」を求められたところで、そこに自由は存在しない。
 
「自分らしく」というこの概念は一見するとどんな形も肯定してくれているようで、その字面に反してやっぱりどこかに「自分らしく」の正解の型がいくつか存在していて、そこから逸脱することが難しいような印象がある。
キラキラと華やかなパフォーマンスをするITZYのように男性に媚びず女の子たちから憧れられる人だとか、エマ・ワトソンのように賢く強く柔軟に自己主張しながら自分の人生を謳歌できる人だとか、すっぴんでおしゃれなゆとりのある生活をすることを選択した人だとか。なんだかイメージが貧困で漠然としているのはわたしが「自分らしく」という言葉に懐疑的なことが大きいのだろう。つまり、「自分らしく」を追求できる人たちというのは精神的にも経済的にも「自分らしく」あれるだけの“余裕”のある人たちなのではないか。
この“余裕”を抱けない日々を送っている者からすれば、「自分らしく」を追求していくことができるのはある種の“特権”である。もちろん経済的に余裕のないなかでも工夫して「自分らしく」を追求している人もいるだろうが、往々にして暮らしに余裕がなければ楽しむゆとりは萎びがちだ。
 
さらに、この言葉は良い意味でも悪い意味でも「個人的なこと」を「個人的なこと」の枠に押さえつけるものとなりやすい。第2波フェミニズムは「個人的なことは政治的なこと」だというスローガンで、個人的な経験が社会の構造や政治に結び付いていることを明らかにすることを掲げていた。しかし「自分らしく」という言葉によって、本来は社会的な問題であるはずのことさえ「個人的なこと」として収斂させてしまう危険がある。つまり、余裕のない者すなわち“選択肢を他にもたない”すべての者に対して「それも自分らしさ」だと言って半強制的に受け入れさせるような、そんな暴力的な恐さを感じてならない。
 
 
そもそも「自分らしく」という言葉が叫ばれるようになったのは、第2波フェミニズムのなかで常に女を都合のいい存在として貶めてきた社会への抵抗から、女たちが自分を「取り戻す」ためであった。そのため、上記のような危惧さえなければ、「自分らしく」と叫ぶこと自体はとても大切なものだと思う。身体的性別をジェンダーという社会的な性別に押し込め抑圧することへの抵抗、解放は2020年において一際大きな世界的課題だと言えよう。問題は、それが商業主義や個人化が進む社会のなかで「取り戻せていない」部分が大きいまま、個人単位に対してエンパワメントを期待し促すようなそのメッセージだけはどんどん肥大化を続けていることにある。
 
 
「世の中には二種類の人間がいる。気に入りの枕でないと寝つけない者と、枕などどうでもいい者と。寝具にこだわらないのは賢明でないと個人的には思う。今夜借りる布団はどぶから拾ったものかもしれないし、さっきまで動物の寝床だったかもしれない。あなたのものは私のもの、私のものはあなたのものという精神は言葉どおり、良いことも悪いこともすべてみんなで背負う。ときに合理的で、ときに非効率的だ。そうと知りつつ、私たち一家は枕を借りながら生きてきた。
毎日枕が替わっても気にならないし、どんな枕をあてがわれても平気だ。こんな枕で眠りたいと、理想の枕を想像したためしもない。それは自分の枕でないと寝られないことにくらべれば、自由であるような気がする。でも自由とは、自分を縛る鎖を自分で選ぶことだと、聞いたこともある。」

 

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

  • 作者:栗田 有起
  • 発売日: 2006/06/28
  • メディア: 文庫
 

 

自由とは、選択肢が保証されている状態であることが大前提なのだ。テルミ-は“選択肢がない状況”のなかで、それに対して順応することを“選んでいる”のだが、順応しなければ生きてはいけないのだから選択肢はないに等しい。一見“選んでいる”ように見えても、実は選択肢が他にないということは現実社会にも往々にしてある。
 
世界で唯一夫婦同姓を義務づけられ夫婦別姓を選択することができない制度のもとで、それを普通のことだと認識している状態
 
・「細いねぇ」が女性への誉め言葉とされ、痩せていなければその辺に売っている服を綺麗に着ることすらできない状態
 
・実質賃金が下がり続け、戦後初めて親の世代よりも年収が低くなっているというミレニアル世代が車を持つこと、子どもをつくることを諦めてお金のかからない趣味が多様化している状態
 
・単価の安い食品ばかり購入している低所得者層のほうが、栄養やバランスを考えた食事を用意できる高所得者層よりも肥満度が高いという現実
 
・ホームレスでいることも自己責任とされ、ホームレスの人たちがその生活を自ら選び、楽しんでいるかのように受け取ること
 
 
 
「自分らしく」あるためには、どれを選んでも生存権が脅かされず、社会的に立場を失うこともないような複数の選択肢が保証されていなければならない。そうでなければ、強制的と言える行為が「自分らしく」というベールで包まれた欺瞞となってしまう。
 
この“選択肢”が日本社会に少なすぎること、社会的立ち位置によって選択肢の量と質に違いがありすぎることを“仕方のないこと”として受け入れず、選択肢を増やすために、現状を変革していくことが必要なのだと思う。上記した“違和感”の正体とはつまり、選択肢のない社会に対して働きかけを行わないまま、個人単位にだけ向けて「自分らしく生きれるよう頑張ろう」と鼓舞するような姿勢への違和感だったということなのだ。私たちは「自分」の中だけで無理に完結させる努力をしなくてもよいのではないか。社会に対して選択肢がないことに不満を抱き、選択肢が増えることを望むこと、それこそが欺瞞ではない「自分らしさ」や多様性のある自由につながるものとなるのだと思う。選択肢のない現状に満足している者だとしても、他の選択肢を選べないことで不自由な思いを噛み殺して生きている者がいるのなら、選択肢が増えること自体に反対するのは筋違いである。
 
テルミーは希望を意志的に断念することで自分を保っていた。その断念は、選択肢が増えることを社会に期待ができないことによるものだろう。社会と個人の間に信頼関係が結ばれていないとき、その社会は存在意義を見失い、個人に対して害を及ぼすものとなる。そもそも日本には「社会」という概念が存在せず、「世間」というものが社会の顔をしてきたと阿部謹也は言う。すなわち、社会との信頼関係が希薄化しているのではなく、明治初期に「社会」という言葉を導入してこの方、「社会」というものを日本人は本当の意味ではまだ会得していないのではないかということだ。他の国のように民主主義が根づいていないことも、コロナ禍で人々がマスクで自衛は積極的に行っても給付金のさらなる追加を求める声を連帯してあげていこうという機運がなかなか高まらないことも、すべては「世間」の概念の中に日本人が生きているから、という理由で説明がついてしまう。
 
日本の喫緊の課題とはすなわち「社会」をどのように会得していくのかに尽きる。社会との信頼関係が成立して初めて個人は社会にこうあってほしいと希望を抱くことができるのだから。しかし実は、「社会にこうあってほしい」と願うことそのものが社会統合の礎となる。選択肢を広げるために、社会を作り上げるために、希望を抱くための「希望」をもつことが「取り戻す」ということなのではないだろうか。
 

2020年の終わり 日本社会で日々生きていく営みの態度について思うところを書き連ねる

最近考えていることを読書メモを兼ねて文章にしていこうと思う。どこに帰結するか未定の状態で書き始めるのでなかなか不安だ。


鬼滅の刃、わたしも好きです。原作も最終話までジャンプ本誌で追っていたし、アニメも映画も見ました。アニメ化によって人気も物凄いことになっている。少し昔のようにどこの家庭でも同じ時間に同じ番組に熱狂するというメディア体験の共有の形は今やもうなく、若者のテレビ離れが加速してYouTubeが主要メディアに仲間入りをし、エンタメや趣味がますます多様化している昨今において、これだけの大ブームが起きるなんて全くの予想外だった。よく言われているけれどサブスクの普及によって深夜アニメがわざわざ録画しなくても気軽に見ることのできるものに変化してきていることを実感として押さえておきたい。この事に伴ってある問題が見えにくい形で発生しているように思うのだ。
これまでテレビという主要メディアは放映される番組の時間帯によって、自然とゾーニングの効果を内包していたように思う。録画という方法はあれど、「この時間帯にやっているものは子どもも見る」、「この時間帯は子どもは寝ている時間だから少々過激なことをしてもオッケー」、そのような緩やかな棲み分けが様々な番組を成立させることに一役買っていたということである。しかしこの時間帯というゾーニングは、サブスクやYouTubeが主要メディアの仲間入りを果たしている2020年にはもはや機能しない。サブスクで視聴するにあたってこのコンテンツは元々この時間帯のものだから、だなんて事情は知ったことではない。ランキング上位のもの、好きなジャンルに分類されているもの、タイトルが面白そうなもの、視聴する作品を選ぶにあたって嘗ての形の暗黙の了解は存在しない。そこにあるのは半強制的な時間帯という外因的な棲み分けではなく、「子どもに人気」などの内因的なジャンル分けということになる。このような現状のなかサブスクで視聴するにあたって、ゾーニングが機能していないことによる何らかの被害が発生した際に、「嫌なら見なければいい」というこの紋切り型の免罪符について私たちはもっと慎重になるべきではないだろうか。サブスクでの配信が普及している段階においてこの問題を問題視する姿勢が製作側とサブスク側にはあまりに不足している、と言うより市場原理主義を突き進むなかで見逃されているように思えてならない。子ども向け大人向けに限らず様々なゾーニングをサブスクというメディアのなかでどのように形にしていくのか、これは今まさに新しいメディア視聴の形に突きつけられている課題なのである。


 

  • 消費者としての社会的責任というもの

関連して、Metoo運動に始まり2020年のBLMや「#検察庁法改正案に抗議します」のTwitterデモを通して一人ひとりが“何も考えなくていい無責任な大衆(有権者)(消費者)”から“自らの置かれている社会的位置や社会的責任を学び、考え、発言していく人間(市民)”になることの重要性がますます高まっている中で、漫画の読者、アニメの視聴者、ひいてはコンテンツを楽しむファンとしての態度にも変化が現れてきていることも実感として押さえておきたいポイントである。最近まで、というか全然いまも“良いファン(賢い消費者)”とされる態度とは、“公式”に文句を言わない、不満があるなら見るのをやめる、批評も批判も蛇足で水を差す行為とされる……などではなかっただろうか。これは阿部謹也鴻上尚史が指摘する“世間”や“空気”のなかで生きる“日本人”の性質がかなりグロテスクな形で消費者行動やファン心理に表出した形と言えるのだが、“公式”が提供するものが余程“道理”を外れていない限りはそれだけ“権威”があるとされるということでもある。しかし、昨今の所謂ポリティカルコレクトネスの気運の高まりは、これまで作品がその権威を以て踏みつけにして軽視してきた社会的弱者への配慮やその描き方の姿勢に対して、いちファン、いち読者、または社会のいち市民の立場から疑問を呈する行為、プロの批評家でもなんでもない“分際”で作品を批評する批判するという行為を後押しするものになっているように感じる。好きな漫画を自分なりに批評したい、好きなアイドルが性加害的な発言をするなら批判したい。好きなモノを全肯定しなければいけないなんて空気にはさよならしよう、誰かの解釈をこれが本当の正解だなんて絶対視することはやめにしよう、その上で自分の感じたことを言葉にしよう。もちろんその行為には責任が伴う。これまで作品の権威を無言で称揚してきただけだからこそ無責任でいられた(実際はどんな行為にも責任は伴うため権威の称揚にも責任は伴うが、権威の傘に入っていたためにその責任が透明化されているにすぎない)が、その責任を引き受けながら考えていこう。2020年の終わりの今のわたしは消費者の態度に対してそんなふうに思っている。



ここで全体主義について触れておきたい。日本社会を考えるにあたってこの概念は欠かせないと考えるからだ。と言っても一言でこれを定義することは難しい。時代によって、そして国によって全体主義の形は様々である。最初に2つ例を出すことでイメージを共有したい。
・ナチズム 指導者のイデオロギーを官僚があらゆる強硬手段によって現実化し、外部からの現実や批判を“無知”だと賛同者がはねのけることで一般党員が積極的に貢献することを促す。全ての人間がいずれかの形で意図せずとも組織に組み込まれ、淘汰される人間を恣意的に区分し、下された決定に疑義を挟ませないようにすることで全体主義運動は社会を支配する。指導者の“嘘(ユダヤ人が裏で世界を支配しているなど)”は現実にすべて一致することは不可能だが、指導者の無謬性はイデオロギーと“嘘”とを維持、反映するように構成された全体主義的組織によって支えられることで成立していた。全体主義的な思考を内面化していくあまり、ナチス政権下でユダヤ人を大量にガス室に送った役人のアイヒマンは、上の決定した規則に生真面目に従うという思考停止(世界疎外)によって、そしてガス室での何百万人もの殺害を「医学的処置」と歪曲するナチスの巧妙な現実遮断によって、自らの有責性に向き合わずに済み、良心の疼きを感じることなく家庭では良い父親でいられたのである。
参考

ハンナ・アーレント (ちくま新書)

ハンナ・アーレント (ちくま新書)

大日本帝国 欽定憲法によって“お国のため”(國體)に個人の権利や自由が制限される全体主義体制。国民は臣民であり、基本的人権については天皇が臣民に“一定の権利”を認めるという構成。法律の範囲次第で無限に国民の自由を規制することが可能。国民から天皇に対する忠誠は無条件かつ無制限のものであり、天皇を頂点として底辺へと正真正銘の階層が形成されており、それぞれが“応分の場を占める”ことに信が置かれた。目上の人である権威に公然と挑むことはその権威が愚弄されることを意味するため厳しく罰せられ、一般の生活においてすら“口答え”は厳に慎むべきものとされた。こうして文化的に国民は意図せずとも自発的に全体主義体制に組み込まれ、内側からこの体制を強化し続けることとなった。明治憲法は他の諸国に類をみない大権中心主義や皇室至上主義をとりながら、それ故に元老ら超憲法的存在の媒介なしには国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属先)を明確にすることを避け、“もちつもたれつ”の曖昧な行為関連を好む行動様式の具現化と言えよう。臣民が内面化する“無限責任”の厳しい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な“無責任”への転落の可能性を常に内包するものとなる。
   参考

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 
 
他にもファシズムをはじめ、ソ連や現中国や北朝鮮は代表的な全体主義として挙げられる。対等、議論という概念が置き去りにされることで、容易に国民1人ひとりの人権が軽視されることにつながる。無責任という単語もキーワードと言えよう。

さて、全体主義体制が少し昔の話、もしくは現代の民主主義国家には関係ない話だなんて思ってしまうのは間違っている。19世紀フランスの政治思想家トクヴィルは民主的な社会においてもなお、専制は存在すると主張する。

 その専制は力によって人々を支配することはないが、個人同士が相互に疎遠になり、人と人とをつなぐ共通の結びつきが存在しない状況を利用する。相互に議論したり協力したりしない個人は、無力になり、無気力となる。そのような人々は、柔らかいがそれでも確実に人を握り潰す力を持つ「権力」の手に、やすやすとして身を委ねる。トクヴィルはこれを民主的専制と呼んだのである。
 そのような権力を前にすると、人々はもはや抵抗の思いすら抱かない。自分自身で身の回りの状況をコントロールできない以上、そのような権力に従う以外にどのような道がありうるというのか、とあきらめる。
 もちろん、そのような柔らかい専制権力が、人々をどこに向かわせているかはわからない。とはいえ、日常生活ですら意のままにならない以上、長期的に自分がどこに押し流されようと、知ったことではない。人と人とのつながりを失った個人が無力感に圧倒され、結果として不透明な権力を生み出す危険性を、トクヴィルは警告したのである。
 トクヴィルの議論を継承するフランスの思想家ジャン=ピエール・ルゴフは、『ポスト全体主義時代の民主主義』(渡名喜庸哲・中村督訳、青灯社)で現代的な、新たな全体主義の特徴を次のようにまとめている。
 その全体主義は、かつての全体主義のように確固とした思想や理念を持つわけではないし、唯一絶対の党組織があるわけでもない。が、社会の既存の組織が力を失ってすべてが流動化するなかで、共通の意味が解体することで指針を失った個人は、メディアがたれ流す大量のパッチワーク的な情報の洪水に溺れてしまう。そこで個人は、政治参加を馬鹿にしながらも、相互に対立するイメージの断片に目を奪われ、踊らされる。
webronza.asahi.com


 最後に映画監督の想田和弘による造語を書き留めておきたい。

「熱狂なきファシズム
ファシズムに「熱狂」は必ずしも必要ないのではないか。むしろ現代的なファシズムは、現代的な植民地支配のごとく、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものなのではないか。
安倍氏は正面から世論に問いかけをしないので、彼をヒーローとして支持・崇拝する「熱狂」も起きない代わりに、国民的な倒閣運動といった強い反発も起きない。にもかかわらず、実際には両院をコントロール下におき、絶大な権力を持っているので、ずるずるじわじわと「やりたいこと」は押し通していけるのだ。

「消費者民主主義」
私たち主権者の、多くは自らを民主主義を作り上げていく能動的な主体ではなく、政治家が提供する政治サービスを票と税金を対価として消費する受動的な「消費者」であると、誤ってイメージしているのではないか。
主権者の自己イメージが「消費者」であるならば、政策を分かりやすく説明するのはサービス提供者=政治家の仕事であり、消費者には政策の妥当性を吟味したり勉強したりする責任は生じえない。吟味するのが面倒くさければ、そもそも政治という分野に関心を持たなければよいのであり、いちいち政策についてあれこれ議論するのは「政治オタク」と「政治で食っている人」に限られるのだ。
(中略)消費者にとって、票を入れたい政治家=商品がいなければ、投票を棄権するのは当然であり、賢い選択ですらある。いや、出馬しているのが「どうしようもない商品=政治家」ばかりだと判断するならば、そのような選挙に関心を持つことすら「賢い消費者」にとっては禁じ手だ。消費社会において、関心を払うことは対価を支払うこと、であるからだ。
かくして、政治の劣化が進めば進むほど政治への無関心は広がり、投票率も下がっていく。主権者を消費者とみているのは政治家の側も同様で、だからこそ誇大広告のような「分かりやすい政策」とマーケティングで主権者を釣ろうとする。お陰で政治はますます劣化していく。そして、主権者が無関心であるのをいいことに、やりたい放題をしていく……。
引用

熱狂なきファシズム: ニッポンの無関心を観察する

熱狂なきファシズム: ニッポンの無関心を観察する

  • 作者:想田 和弘
  • 発売日: 2014/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


今現在の日本社会は全体主義的だと言わざるをえない。タレントによる政権批判が「政治的」だと揶揄され非難される一方で、政権や維新に親和的なコメントは堂々と中立然として垂れ流される空気。不正疑惑のある首相が説明責任を果たさないまま体調不良を理由に辞任するにあたって「お疲れさま」と言うことが道徳的態度だとされる空気。日本は第二次世界大戦での敗北後、「国家のために個人がある」という全体主義的な大日本帝国憲法を否定し、価値観の異なる1人ひとりを互いに尊重しあうために民主的に国家をつくっていくという理念のもとに日本国憲法を制定したはずだった。
参考

檻の中のライオン

檻の中のライオン

  • 作者:楾 大樹
  • 発売日: 2016/06/22
  • メディア: 単行本
そして第二次世界大戦後、敗戦国だけでなく、世界的な課題として全体主義の克服としての民主主義が模索され続けてきた。冷戦とその崩壊、その後アジアやアフリカでも軍事政権や独裁国家への革命やデモが各地で盛んに行われ、現在も様々な形で有権者たちは政治参加を行っている。しかし同じ2020年に日本に生きるわたしたちの多くは民主的な日本国憲法を持ちながら、全体主義を制度化していた大日本帝国憲法の時代と変わらない精神で形式的な民主主義を続けている気がしてならない。

これは何も政治への有権者としての態度の話に収まるものではない。先ほど述べた消費者としての社会的責任の話を思い出してほしい。資本主義社会への消費者としての態度、労働者としての権利、家族やパートナー、友人、職場などあらゆる人間との対等な関係の構築に関わる話である。全体主義的な関係と態度からの脱却への意志、そしてそれを自らの視点に常にかざし続けていく意志、それこそが自由や権利を保持するための不断の努力なのだと思うのだ。
先に参考にしたルース・ベネディクトの『菊と刀』や丸山眞男阿部謹也などの文献を見ると日本社会における所謂「常識」と呼ばれる事柄がいかに全体主義に親和的かに気付くだろう。そのような「常識」を解体し、それに代わる新たな価値観を個人単位だけでなく社会単位でモノにしていくことが不可欠の営みなのではないか。



もともとの日本社会に蔓延る価値観に加えて、2020年日本社会において全体主義とのさらなる悪魔合体の形があるのではという危惧を指摘したい。

ハンナ・アーレントは、アイヒマン及びナチスが犯した行為を「人類の多様性に対する罪」だと断じた。それぞれに固有の文化を有する多様な民族からなる人類から特定の民族を消し去ろうとした試みは、「人間のあり方そのものへの挑戦」だったと言う。全体主義は人間が人間として生きるために必要な「条件」を「余計なもの」として排除した。そうして削ぎ落とされた「余計なもの」の中に、人類全体の多様性を構成する一要素たるユダヤの文化だけでなく、「自発的に行動する人間性そのもの」がふくまれていたということである。そして、全体主義から回復されるべき秩序のイメージとして「複数性」の実現された他者とともにある世界を掲げ、それを可能にする不可欠な要素として「思考」という過去の自身と現在の自己との連続性から成る自己内対話を掲げた。(参考『ハンナ・アーレント』森分大輔 ちくま新書

20世紀の終わりから政府そして経団連の主導のもとに進めてきたもの、そして今や1人ひとりの価値観にまで内面化されているものこそ新自由主義である。そしてこの新自由主義のキーワードこそが「無駄なものを削ぎ落とす」に他ならない。

資本主義はもともと信用という最も原初的な人間関係に基づいて成立している。この信用がなければ取引は不可能であり、信用を守るためには「倫理」が不可欠である。
この信用を基に利子をかけ、危機に備えて貯蓄=投資を増やしていくことが資本主義のシステムであり目的であった。資本主義が進むにつれて危機への蓄えが社会単位で飽和状態になっていくとその社会の金利は低下していく。中世で最も栄えたイタリアの都市国家はそれによって大航海時代に、産業革命の先駆者イギリスは国内の地方への市場開拓を終えると新たな市場を求めて世界へ、その動きは他国に広がり現在のグローバル化に至るまであらゆる形で続いている。しかし世界のあらゆる場所を開拓し終えれば資本主義はその目的を見失う。モノは市場に溢れているのに作り続けることを命題としなければならないのが資本主義システムである。必要なものは既にあるために、人々の欲望を様々な形で文字通り必要以上に喚起し続けているのが現状と言えよう。しかも資本主義は格差を内包するシステムである。最初の資本家は海賊ドレーク将軍と言われ、資本家たちは山賊や海賊など「収奪」によって最初の資本を手にした者たちであった。もともと「不正」で始まった資本主義は、しかしそれでも社会が成長するならばそんな不正にも目をつぶろうという何とも心苦しい名目のもとに正当化され続けてきた。そして環境破壊や奴隷制(現代における非正規雇用や外国人技能実習生の問題も現代版の奴隷制と言える。)あらゆる「搾取」や格差は社会が成長を終えるまでは必要なのだとされてきたのである。

さて、この資本主義の死に体のなかで生まれたものこそが新自由主義である。差別化による欲望の喚起を続けることにも限界がある。労働者から、社会サービスから「ムダ」を削ぎ落とすことこそが必要であり、正義なのだと持て囃す。そうして経営、政治、さらには個人の生き方からどんどん「ムダ」が削られ、気付けば私たちは余裕も安心もなくなった社会を生きている。新自由主義を体現する維新が大阪でムダだと保健所や看護士を減らしてきたことで大阪は大変なことになっている。コロナ禍以前さえ実質賃金は下がり続け、非正規雇用はもはや主婦や学生の小遣い稼ぎではない。富める者数パーセントはコロナ禍で優雅に在宅勤務をしながらますます富み、貧しい者はウイルスの危険に晒されながら他に選択肢のない状況で働きつづけるもしくは簡単にクビを切られるというこの矛盾。人々は自分やその家族が生きていくことに精いっぱいで、健康で文化的な余裕のある人生、人文学な豊かさとは程遠い日々を送っている。酒、推し、恋人、何かに酔っ払っていなければ希望すら見出だせないような社会。「手すりのあるベンチ」で横になるホームレスをゴミ拾い感覚で殴り殺してしまう人間を生んでいるのは「手すりのあるベンチ」や排除アートを作る行政であり、このムダを削ぎ落とす社会そのものである。
参考 
webronza.asahi.com


ケインズは「不正」が正当化されるのはゼロ金利になって資本主義がその目的を終える時までだと言う。つまりゼロ金利状態になってなお資本主義を続けるために編み出された新自由主義というこの概念は、最初から生まれるべきではなかったのだ。不正にさらなる不正を重ねる新自由主義のもとではもはや倫理や「正しさ」は欺瞞とされ、強者がさらに強者となるために弱者はさらに搾取され、排除されていく。余裕がなくなり生存権すら危ぶまれる状況、もしくは日々の労働に疲れきって生活に最低限必要なこと以上のことを考え学ぶことを放棄せざるをえない状況。それはアーレントの指摘する全体主義下で思考停止した世界疎外に陥っている人間の姿と重なるのではないだろうか。
参考 

11月29日21:00~ #D2021 企画 Vol.5 Dialogue 「さよなら資本主義 # 1歴史篇 」

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)

資本主義から市民主義へ (ちくま学芸文庫)




いまの日本社会が全体主義を克服することはあまりにも無謀なことだと思われる。家庭でも学校でも全体主義的な教育を受け、全体主義悪魔合体した資本主義システムのなかで生きている私たちにはこのまま全体主義とともに弱者ほど溺れ苦しみながら生きていく未来のほうが余程現実的に予想しやすいだろう。そんな未来のなかで少しでも「他人よりはマシ」な相対的豊かさを求めてこの弱肉強食の社会システムに加担していくこと以外の選択肢が必要だ。

その為に必要なことを考える材料としてベーシック・インカムという概念を紹介したい。ベーシック・インカムとは資本主義のあり方への疑問から考案された社会システムの形の1つである。個人単位で健康で文化的な生活に必要な金額を一律給付することで、必要以上の経済成長を抑えながら1人も取り零すことなく生存権を保証しようというものである。働かなくても生活が保証されるなんて資本主義システムに生きる私たちには夢物語のように聞こえるが、歴史的な運動に裏打ちされ、学術的にもかなり真面目に考えられてきたものであることは念押ししておきたい。
参考

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

  • 作者:山森亮
  • 発売日: 2009/02/17
  • メディア: 新書

ここで注意しなければならないのは、全体主義的な価値観のままベーシック・インカムのシステムに移行しただけでは何の意味もないばかりかますます一部の者だけに都合のよい社会が生み出されてしまうということである。新自由主義を日本で進めてきた中心人物の1人である竹中平蔵が今年6月に「国民1人あたり七万円のベーシック・インカム」を提案した。

「これまでの現金給付は、消費刺激効果がなかったと言われるが間違いだ。これは景気刺激策ではなく、生活救済策だ。10万円の給付はうれしいが、1回では将来への不安も残るだろう。例えば、月に5万円を国民全員に差し上げたらどうか。その代わりマイナンバー取得を義務付け、所得が一定以上の人には後で返してもらう。これはベーシックインカム(最低所得保障)といえる。実現すれば、生活保護や年金給付が必要なくなる。年金を今まで積み立てた人はどうなるのかという問題が残るが、後で考えればいい」(週刊エコノミスト誌6月2日号『コロナ危機の経済学』)(「月に5万円」の部分は、9月のテレビ番組(BS-TBS)出演では「月に7万円」に増額されている)

この竹中の発言は形式的には確かにベーシックインカムのように見える。しかし実際には国は毎月七万円を出すだけで健康保険も介護保険も年金も何も出しませんと公言しているのである。生活するのに七万円では衣食住の最低限すら満たせないため人々は働かざるをえない。これは国民からではなく、政府から見ると相対的にこっちの方が安上がりだという話にすぎないのだ。
ベーシック・インカムは元はと言えば1人ひとりが生存権を保証され、身体的にも精神的にも余裕のある生活を送れるようになることを願われて考案されてきたものである。そのような文脈を抜きにして政府のコスパの面だけから議論することは本末転倒でしかない。「本質的」なベーシック・インカムが実現される社会とは、市民1人ひとりが世界疎外を克服し、常に自由と権利の保持のために不断の努力が必要とされる社会である。

つまり、どんなに素晴らしい理念のもとに考案されたシステムを投入していくにしても、その地盤が全体主義的であったならば新自由主義との悪魔合体の再来または強化となってしまうのだ。誰か1人または数人のとても素晴らしい理念を持つ人が現れたとして、その人たちに全てを任せようなどという考え方をしていては、全体主義的な社会から抜け出すことはできないのだ。救世主を待ち望んで今の苦しい状況を打破してくれるのを期待しているような態度では手遅れになってしまう。繰り返しになるが、個人単位そして社会単位で以てして全体主義と決別する意志を持つことが必要なのである。

今の全体主義に毒された価値観を否定することで新たに異なる形の価値観つまりは信じるものが必要となる。かつてフランス革命においてそれまでの旧体制を全て否定したフランス国民は、その後の100年間に自分たちが生きていく指針を見失い鬱病が国民病にまでなっていた。人々が生きるのに希望を持つために、そして社会が社会としてまとまる(社会統合する)ためには、何らかの形の「宗教的なもの」が必要となる。それは何もキリスト教的なものや新興宗教のようなものであるとは限らない。

デュルケムは宗教とは「集団の全構成員にとって義務を伴う信仰であること」を宗教的事実の第一の特徴に挙げている。そしてこれもまた拘束を伴うものだが、「外的実践活動」を第二の特徴だとしている。「国旗や祖国、あるいは統治形態や英雄、歴史的事件などのように一見すると“世俗的”にみえる対象への諸々の共通信念は、どれも何らかの義務を伴っており、まさにそれ故この信仰は共有される。なぜならこの共通の信念を公然と否定されることに共同体は決して黙っていないからである。この信念はある程度までいわゆる宗教的信仰と見分けがつかない。我々にとって祖国、フランス革命ジャンヌ・ダルクなどは、触れることを憚られる“聖なる事物”である。」このように、デュルケムは宗教は神秘的なものとは何の関係もない社会的事実だと考えた。宗教的事実はいつの時代にも、どの文明にも存在する。表面的にはどんなに不信仰な社会でも、非宗教的な社会でも姿を見せる。その起源は個人の感情ではなく集合的な魂の状態にあるので、その状態に応じて宗教的事実は変化を見せる。だがそれは本質的に人間に固有のもので不滅である、つまり人間が存在し続ける限り存続する。信者が信じるべき教義・守るべき儀礼を彼らに命じるものこそが社会である。聖なるものの観念の起源は社会にある。仔細にそれを検討してみれば、その観念がどこまでも「公共制度の延長上にあるもの」だということがわかるだろう。

引用

革命宗教の起源 (白水iクラシックス)

革命宗教の起源 (白水iクラシックス)


つまり無信教と自負する人が大半の現代日本社会も、葬式、朝礼、電車でのマナーなどに現れている通り実は意識せずとも多分に「宗教的なもの」を有している。と言うより「宗教的なもの」を見失った社会はもはやかつてのフランス国民のような状態に陥っているのだと言えよう。
参考

社会が社会としてまとまるために「宗教的なもの」が必要というのは、「何を正しいと信じるか」「何を間違いだとするのか」という合意形成の話である。つまり、その合意形成がもはや成立しない状況になれば社会は本質的にはいとも簡単にバラバラになってしまう。日本社会がこれまでの全体主義的な価値観を否定しなければならないということは、これまでバラバラになる一歩手前で溺れ苦しみながらもかろうじて維持してきた社会システムを手放すことを意味する。

では、かつてのフランス国民はどのようにして再び社会統合を目指してきたかと言うと、1人ひとりが新たな信仰の対象として、人権宣言に基づく民主的な社会の実現を掲げたのである。そうして少しずつあるべき社会を模索するなかで、かつて旧体制とともに解体した労働組合を再編成し、あるべき社会の姿を追及し続けることを命題としたのである。現在ヨーロッパではEUとして国家を越えて異なる価値観の国同士でさえまとまることを意識している。そこにはどんな形であれ、国境を越えた普遍的な「宗教的なもの」の共有があることは言うに及ばない。
そしてヨーロッパに限らず世界中で今、「何を正しいとするのか」についての問い直しが起きていると言えるだろう。アメリカでのBLMはこれまでの人種差別が制度的な差別であったという連綿と続いてきた歴史への反省が白人側から起こっている。香港では全体主義的な強権で民意を抑える政府に対して史上稀に見る大きさのデモが起きた。消費者として環境問題を真剣に考える人たちのなかからヴィーガンが現れ、ペット動物の生育環境の悪さへの問題視からペットショップではなく保護犬保護猫を引き取ることを選択する人が増えている。そういう普段当たり前に送ってきた生活への自分の態度1つひとつに目を向ける、そしてそのための思考や学びを続けること。それこそが全体主義に抗う術の第一歩ではないだろうか。